2021年5月19日

社長の生い立ちと「家づくりへの想い」

目次


伊藤家に約4000グラムのビックベイビー誕生

昭和41年1月25日、100年以上続く大工一家
長男として誕生。

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工務店を営む無口で職人気質な父と、
おいしいおはぎを作る母のもと、
お祭り大好きな府中っ子として育ちました。

自宅の作業場で大工仕事をする父の姿は、
幼いころの私にとってとても格好良く、印象的で・・・。

そんな父に憧れ、いつの間にかトンカチを持ち、
見よう見まねで簡単な踏み台を作ってしまう。
そんな子供でした。


小学校の頃は、比較的内気な私でしたが、
勉強よりも体を動かすことが好きだったため、
同級生から


「サッカーしようぜ!」


と誘われ、キーパーをしたことは今ではいい思い出です。

日曜日には実家の工務店で働く大工さんの一人に、
ヘラブナ釣りに連れて行ってもらったこと、
お昼には、ペヤングソース焼きそばが
美味しかったことを思い出します。

大人になると釣り場が海へと変わり、
日曜日には家族で海釣り公園に遊びに行って、
1日を過ごした時もありました。

最近は息子と一緒に船釣りで鯵が大漁だったので
三枚におろして、有難く食べました。

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中学校時代は甘酸っぱい学校生活を過ごしながら、
気が付けば進路を考える時期となり、
幼いころから見てきた建築以外思いつかず
建築科のある高校へ進学しました。


高校は、友達と遊んで過ごす時間が
楽しくて、楽しくて。(笑)
つい、勉強をおろそかにしてしまうほどでしたが、
二級建築士の受験資格を得るために専門学校へ進学。


専門学校では真面目に勉強をしつつも、
時々授業を抜け出し、大好きな甘いもの(ドーナツ)
食べに行くこともありました。



社会人デビュー。そして決意。


そんな学生生活を過ごしてきましたが、
いよいよ就職の季節。


いつかは父の工務店を継ぐという思いがあった為、
実務経験の一つとして、建設会社に就職しました。

現場監督の見習いとして雑務をしながら
過ごしていたある日、設計部署の人に


「図面を描いてみてほしい」


と言われました。

描いた図面を見せると、


「君は設計の方が向いているようだね」


と言われ、学生の頃から図面を描くことは
得意だったこともあり、
設計の部署へ移ることになりました。

しかし、座って作業をするよりも、
現場に出て、体を動かす方が好きだったため、
次第に幼いころ抱いた大工への憧れ
強くなっていたこともあり、
私は決意しました。


「よし!大工に転職しよう!!」



運命の出会い


転職を決意した私。
まずは三か月勤めていた直属の上司に


「辞めたいです!」


と相談をしました。
しかし、当時勤めていた会社は人手が不足していたため、


「1ヶ月考えてほしい」


と言われました。

ですが、一度決めたら譲らない頑固な性格だった私。
1ヶ月考えても決意は変わらず、
上司に辞める意思をもう一度伝えました。

すると上司もあきらめがついたのか、


「次の人を探す時間としてあと1ヶ月待ってほしい」


と言われ、転職探しをスタートしました。



工務店の跡取り息子である私にとって、

父のもとで見習いとして学ぶ

という選択肢もありました。
しかし、私にとって

父は生涯のライバルであり、乗り越えるべき存在

腕相撲に勝てるまで何度も何度も挑むほど、
ライバル心を燃やしていました。
だからこそ、乗り越える存在である父に教わっても
勝負にならないと思い、


「どこか見習い大工として入れる工務店をしらないか?」


と父に相談をしました。
ですが、父自身は横のつながりはあまりなく


「紹介ができるところがない」


と言われました。

ないのであれば、自分で探すしかない・・・。

私はハローワークに行き求人を探すことに。

探すにあたって、

いっそのこと地元でやるよりは
自分でやりたいことをやった方がいいな・・・。

と思い田舎方面を探しました。
長野周辺を10社ほど探し見ていると、
軽井沢の工務店で大工の求人を発見。
そこで私は、

長野といえば別荘・・・。
別荘といえば軽井沢!

早速電話をし、面接を申し込みました。


意気揚々と車で4~5時間かけて軽井沢に向かい、
いざ面接へ!


しかし、親方(社長のこと)との面接時に、
こう言われました。


「都会暮らしの坊ちゃんが、
いきなり軽井沢に来たって無理だよ。」


それもそのはず。軽井沢の冬はとにかく寒い!!

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雪は解けない。車の窓は凍り、
氷を解かすためにお湯をかけても一瞬で凍るほど・・・。

そういう意味で
東京の人には厳しい、無理だと言われたのです。


「とりあえず、1ヶ月考える時間をあげるから、
また連絡してくれ。」


と言われ、4~5時間かけて東京に帰りました。


しかし、一度決めたら曲げない性分。
気持ちは変わらず、軽井沢の会社に転職を決めました。


勤めていた建設会社も退職し、
決意を新たに軽井沢へ新たな旅立ち!!
しかし親方自身、
本当に来るとは思っていなかったようで


「なに、お前来たの?じゃあ、やるだけやってみな。」


と、こんな言葉をいただいた結果、
親方のもとで見習い大工として、
技術を学ばせてもらえることとなりました。



大工としての礎を築いた充実の日々


そこからは、毎日が無我夢中でした。
掃除から始まり、先輩大工についていく毎日で、
職人は口数が少ないため、
技術を見て、真似て、盗み取るしかなかったのです。

親方から学ばせていただくこともありました。
ですが、基本的に口で教えない人で、いつもニコニコ、

「言いたいことはたくさんあるよー」

という目で語る。そんな親方でした。


見習い大工として初めて1人で造作したのは、
人目につかない押入からでした。

できるようになると床、壁、
墨付け(柱などに加工するための目印をつける事)まで
任せてもらえるようになりました。

墨付けの中で特に面白かったのが
別荘特有の丸太に墨付けをする事でしたね。


軽井沢でやっていくと決めた以上、
泣き言は言わず、つらいことがあっても表情に出さない。

そう思っていても
何度も挫折しそうになることもありました。

そんな時はふと、軽井沢の壮大な自然や、
東京ではあまり見ることがない雨上がりの見事な虹を見て、


自分はこの自然と比べると小さな存在。
小さい自分の悩みなど、もっと小さいものじゃないか。
そんなことでクヨクヨしている暇があるなら、
次に進まなきゃ負けてしまう!

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大げさかもしれませんが、
自分なりに乗り越えるための
1つの励みとしてやってきて、

少しのことではくじけない自分に
成長することができた事と思います。

そして同時に、
知らない土地で1人暮らすということは、
忍耐強さを鍛えられる場所でもありました。


この軽井沢での経験は
あれから30年以上経った今でも私の土台、
そして伊藤ハウジング自慢の施工力につながっています。


そして、親方のもとへ弟子入りしてから2年半・・・
事件が・・・。



新たな始まりと出会い


いつも通りの現場で働いていた時のことです。
目の前が突然真っ暗になり、
足元がふらつき倒れてしまいました。

当時、親方から畑の中のポツンと一軒家を借りていたので、
ご近所さんからよく、丸ごとの白菜をお裾分けで頂いたりと
有難かったのですが、そこは男の一人暮らし。

料理のレパートリーが少なく、
白菜ばかり食べていたことが原因か、
栄養失調になってしまったのです。

それだけがきっかけではなかったのですが、
三年という節目で、跡を継ぐ将来を見据え、

二級建築士の資格を取得する目標もあり、
東京に戻って父のもとで働く決意をしました。


約半年後、二級建築士の資格を一発合格。
軽井沢で培った技術を活かし、
父と共に大工として経験を積んでいきました。



そんなある日、
父のお客様でもあったお世話好きなおばちゃんから


「親戚の子がお見合い相手を探しているのよ~。」


という話を父が聞いたようで・・・。

当時の私は、お見合いをする気は
そこまでありませんでした。

しかし、いつの間にか父が話を進めていて、
お見合いをすることに。

お見合い当日は話をしただけで終わったのですが、
その後、お世話好きなおばちゃんから連絡が来て、


「先方があなたを気に入っているって言ってるわよ~。」


と言われ、
何度か会って食事をしたりしているうちに、
付き合うこととなりました。

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これは、あとでわかったことですが、
どうやらお世話好きなおばちゃんは、

「先方が気に入っている」

と相手の方にも伝えていたらしく・・・。
お互いおばちゃんの罠に、
はまっていたようです(笑)


そんなこともありましたが、
1年の交際を経て結婚に至りました。
23歳の時に結婚してから、約30年

いい時も悪い時も、共に歩み、
陰ながら支えてくれた妻には気恥ずかしくて、
直接「ありがとう」は言えないけれど、
本当に心から感謝をしています。



今でも大切にしている『丁寧な仕事』そして『人と人とのつながり』


東京に戻ってから10年ほど経ち、
とあるリフォームの現場で、
専属大工の少しずさんな仕事を見つけてしまい、
私から職人へ一喝することがありました。

自分は丁寧な仕事をすることにこだわっているからこそ、
他の職人たちにも同じように丁寧な仕事をしてほしい。

同じ大工として、そして監督責任のある立場としても、
これが私の譲れない想いでした。

現場で働く職人たちには自分の持っているこだわりを
必ず伝え、丁寧な仕事を心がけてもらっています。

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そしてもう1つ、
私には日ごろから心がけていることがあります。

それは私が大工を続けていて、
とても嬉しかった出来事から今でも大切にしている経験です。


1人で現場を任されていた時のこと。
現場を通りかかったご近所の方に私から


「こんにちは」


と挨拶をすると、


「実はね・・・。」


と家のことでご相談を頂きました。

その後、無事工事が終了し、
改めて声をかけて頂いた経緯をうかがうと、


「通るたび、工事現場がつい目に入るようになって、
いつも現場をきれいに作業している姿から、
丁寧な仕事をする大工さんなんだろうな・・・。
そう思い、お願いしました。」


この時の出来事は今でも鮮明に覚えています。

そのお客様からは


「家についての相談なら、
この伊藤ハウジングという工務店がおススメだよ。」


と何人もお友達をご紹介いただきました。
この出来事でつながることができたお客様方とは
お得意様としてお付き合いを続けさせて頂いています。


大工として、
自分の仕事を評価していただけたことも
もちろんうれしかったですが、
それ以上に人とのご縁、
そしてつながりの大切さを気づかされた出来事でした。

親子二代、
地元府中市で地域の皆様に支えられて
続けることができた工務店だからこそ、
これからも人と人とのつながりを大切に続けていきます。



築き上げてきた思い


その後の私は、父から会社を受け継ぎ、
今は二代目、
代表取締役社長として経営をしています。

私たちの会社の強みは、


『無垢材を扱える大工がいること』


だと思っています。


『家は次の世代にも受け継がれるもの。
大工さんが人の手で削り、仕上げて、
想いを込めて作ったものを残していきたい。』


だからこそ、
職人1人1人が家づくりのプロとして、
責任と自信を自覚し、
ぬくもりあふれる家に暮らす家族が1人でも多くなるよう、
サポートしていく。

そんな思いとともに、


人の手で作り上げた"ぬくもりを感じる住まい"を提供し続ける


この言葉を自社の使命として、
スタッフ一同、これからも
お客様が残したいと思う家をお客様と共に、
作り続けたいと思います。

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